クリムト「接吻」考。
西村さんが好きなTV番組の一つに「美の巨人たち」があります。
毎週、美術品を丁寧に解説・解釈していく、それでいて面白い番組。
先週はグスタフ・クリムトの「接吻」が取り上げられました。
十代の頃はクリムトの絵は何だか好きになれなくて、正視したことがありませんでした。ちゃんと観るようになったのは本当にここ数年てとこ。
何で好きになれなかったのかというと、たぶん死の匂いを感じたからだと思う。
決して画面にダイレクトに描かれていないのに、画面から香り立つ死。
登場人物の青白い顔と、あの金色がそれを感じさせるのでしょう。思い返してみると、自分の中には金色=死のイメージがある。
中尊寺金色堂もインカ帝国もツタンカーメンも全部死。金色はきらびやかでありながら怖い。だからクリムトも怖い。
絵画は美しく、心穏やかになる物が好き。
大好きなルネ・マグリットの絵は陰鬱な部分を含みながらも、決して死の絵ではないし、大多数が解釈次第では微笑ましく、美しいから好き。
それ故に、クリムトを世間が言う程良いとも思えなかったのだけれど、最近は心境が変わったのか直視することも出来るようになり、まあ普通に良いかも、と感じられるようになった。
で、「接吻」ですが。
必ずと言って良い程、女性の表情の解釈に「恍惚」という単語が使われる。
「美の巨人たち」でもそう表現されていたのだけれど、そこに違和感を感じます。
恍惚なんてそんな単純な表情じゃない。
もっと深い愛というか、魂の共鳴。
「恍惚」という単語をどう捉えるかにも寄るのだけれど、辞書には
当然3は違う。
2の意識がハッキリしない、というのもなんか違う。絵の女性はうっとりとはしてるけど、意識はちゃんとしてる、そんな表情。
ならば残された1だけど、物事に心を奪われて、と言うのも違う気がする。喜びを感じてはいるけれど、キスに心を奪われている風ではない。
恍惚って、個体の感覚だと思う。
どれだけうっとりするような場面でも、相手とそれを共有できない。どんなに気持ちの良いセックスでも、相手と自分の感覚が違うように。
だけど、この女性の表情は独りでうっとりしているようではなく、顔の見えない男も同じように深い喜びを感じているように見える。
相手と自分の心が通じ合う喜び、自分が相手を思うのと同じように相手も自分を必要としてくれる、その喜び。
どれだけ愛しても、決して混ざり合うはずのない心と心、体と体。それは切なく、どうしようもない苦しみ。
けれど、時折、重なり合うそんな瞬間がある。肉体は混ざり合わなくても、限りなく近い二つの魂。
断崖とおぼしきギリギリの場所に跪いた体を支える足の指は、そこに二人の全てが掛かるかのように力強い。頬に触れる男の手は無骨で、繊細さとは無縁だけれど、情熱を感じる。また、答えてしがみつく女の腕も情熱的。それでありながら、添えた手は慈しみさえ感じる。
そこにあるのは恍惚などではなく、互いに一つになろうとする愛の形。
数多くのモデルと恋愛関係にありながら、生涯独身だったクリムト。
「接吻」のモデルであり、最期を看取ったと言われるエミーリエも生涯独身だったのは、結婚などと言う制度を超越した結びつきがあったためじゃないか、そんな風にこの絵を見ると思ってしまう。
ロマンチックすぎる解釈だろうか。
けれどそんな愛情があっても良いと思うし、自分はそんな形で愛し愛されたいと思う。
きっと、愛と死は背中合わせなのだ。
【2010年1月12日追記】
Googleで「クリムト」「接吻」で検索すると、何故か上位で来るために色んな方にアクセスしていただいているようです。ありがたいことです。
ただ、あくまでも素人が感じたことを想像で語ってるだけなので、話半分でお願いします。
毎週、美術品を丁寧に解説・解釈していく、それでいて面白い番組。
先週はグスタフ・クリムトの「接吻」が取り上げられました。
十代の頃はクリムトの絵は何だか好きになれなくて、正視したことがありませんでした。ちゃんと観るようになったのは本当にここ数年てとこ。
何で好きになれなかったのかというと、たぶん死の匂いを感じたからだと思う。
決して画面にダイレクトに描かれていないのに、画面から香り立つ死。
登場人物の青白い顔と、あの金色がそれを感じさせるのでしょう。思い返してみると、自分の中には金色=死のイメージがある。
中尊寺金色堂もインカ帝国もツタンカーメンも全部死。金色はきらびやかでありながら怖い。だからクリムトも怖い。
絵画は美しく、心穏やかになる物が好き。
大好きなルネ・マグリットの絵は陰鬱な部分を含みながらも、決して死の絵ではないし、大多数が解釈次第では微笑ましく、美しいから好き。
それ故に、クリムトを世間が言う程良いとも思えなかったのだけれど、最近は心境が変わったのか直視することも出来るようになり、まあ普通に良いかも、と感じられるようになった。
で、「接吻」ですが。
必ずと言って良い程、女性の表情の解釈に「恍惚」という単語が使われる。
「美の巨人たち」でもそう表現されていたのだけれど、そこに違和感を感じます。
恍惚なんてそんな単純な表情じゃない。
もっと深い愛というか、魂の共鳴。
「恍惚」という単語をどう捉えるかにも寄るのだけれど、辞書には
1 物事に心を奪われてうっとりするさま。「―として聴き入る」「―の境地」とある(ちなみにこれはネットの「大辞泉」)
2 意識がはっきりしないさま。
3 老人の、病的に頭がぼんやりしているさま。有吉佐和子著「恍惚の人」(昭和47年)により流行した。
当然3は違う。
2の意識がハッキリしない、というのもなんか違う。絵の女性はうっとりとはしてるけど、意識はちゃんとしてる、そんな表情。
ならば残された1だけど、物事に心を奪われて、と言うのも違う気がする。喜びを感じてはいるけれど、キスに心を奪われている風ではない。
恍惚って、個体の感覚だと思う。
どれだけうっとりするような場面でも、相手とそれを共有できない。どんなに気持ちの良いセックスでも、相手と自分の感覚が違うように。
だけど、この女性の表情は独りでうっとりしているようではなく、顔の見えない男も同じように深い喜びを感じているように見える。
相手と自分の心が通じ合う喜び、自分が相手を思うのと同じように相手も自分を必要としてくれる、その喜び。
どれだけ愛しても、決して混ざり合うはずのない心と心、体と体。それは切なく、どうしようもない苦しみ。
けれど、時折、重なり合うそんな瞬間がある。肉体は混ざり合わなくても、限りなく近い二つの魂。
断崖とおぼしきギリギリの場所に跪いた体を支える足の指は、そこに二人の全てが掛かるかのように力強い。頬に触れる男の手は無骨で、繊細さとは無縁だけれど、情熱を感じる。また、答えてしがみつく女の腕も情熱的。それでありながら、添えた手は慈しみさえ感じる。
そこにあるのは恍惚などではなく、互いに一つになろうとする愛の形。
数多くのモデルと恋愛関係にありながら、生涯独身だったクリムト。
「接吻」のモデルであり、最期を看取ったと言われるエミーリエも生涯独身だったのは、結婚などと言う制度を超越した結びつきがあったためじゃないか、そんな風にこの絵を見ると思ってしまう。
ロマンチックすぎる解釈だろうか。
けれどそんな愛情があっても良いと思うし、自分はそんな形で愛し愛されたいと思う。
きっと、愛と死は背中合わせなのだ。
【2010年1月12日追記】
Googleで「クリムト」「接吻」で検索すると、何故か上位で来るために色んな方にアクセスしていただいているようです。ありがたいことです。
ただ、あくまでも素人が感じたことを想像で語ってるだけなので、話半分でお願いします。
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