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「最高はひとつじゃない2014」を観て。

 KREVAさんの音楽を使った音楽劇「最高はひとつじゃない」が再演されたので、観に行って来ました。
 ケッコー長いダメ出しだから、さくっと読み飛ばしてくれていいよ(笑)

 場所は初演と同じ日比谷の「シアタークリエ」
 千秋楽と、千秋楽前日の夜の回の2回を観ました。
 ストーリーは同じですが、KREVAは前回演じた掃除夫は別のキャストに譲り、今回は黒紳士なるタキシードの役一本になりました。
 そのため、各ストーリーの主役たちによる歌のシーンが増え、KREVA一人による歌は殆どないくらいに。そこがちょっと残念で物足りなかったかな。

 前回書いた悪かった点のうち、ホリゾント前の移動姿は見えなくなっていました。脇役への演出も良くされており、初演では大きすぎたKREVAのマイクの音も問題なし。
 実は前回、細かくアンケートにダメ出しを書いたのですが、それらも全部クリアしていて、観ていて、しっかり練習をしたのが判りました。

 ただ、一番問題の中学生レベルの基本ストーリがそのまま。
 いや、少し書き足したKREVAの役所の黒紳士を入れることで、さらに幼稚になってる。
 ハッキリ言おう。厨二レベルの話!!
 黒紳士って何よ?魂を送るって何よ?人の言うところの死神って!!(失笑)
 まあ、十歩譲って黒紳士は良いとしよう(KREVAさんは何やっても様になるし)
 初演時には全幕に渡ってKREVAを出すために、タキシードを着せて歌わせたのですが、それと並行して掃除夫も演じたから、ごっちゃになってしまうので分けよう、とKREVAから提案があったそう。実際そういうアンケートの回答もあったのでしょう。
 それで役として黒紳士を作り、掃除夫を別の人に、というのは必然の産物だからまだ判る。
 でも、それは前回のタキシードがただの音響係として、歌うだけのために登場していたのが悪かったのであって、二役が悪い訳ではない。
 むしろ他の場面でもきちんとした主演を与えてしまえば、一人二役、三役なんだな、と判ったはず。初演で問題だったのは、同じ重要性のある役を与えなかったこと。
 それを理解しないで二役が判りづらい、と黒紳士を作ってしまったところに、浅さを感じる。
 そしてナビゲータ的な役割だったもう一人の黒紳士の町田さんと、白タキシードのMammy-Dの白紳士との絡みを作ったはいいけれど、中途半端な設定のせいで、ますますオマケのような役に思えてしまう。
 だったら、掃除夫だけの出演の方がマシだったと思う。初演の掃除夫の演技、良かったから。

 KREVAさんは演劇畑の人でも、テレビの人でも舞台の人でもはないから、単純にわかりやすさを提案したのだと思う。そこを納得させ、判りやすい本を書くことが、周りのプロの仕事だったはず。
 しかも、そうやって単独の役にした割に、あまりストーリーに関連性がない。
 話の中では「黙って見ていられなくなって背中を押した」ということになっていたけれど、具体的に関与したのは「現代」の掃除夫に対してだけ。しかも憑依ってなんだよ。
 「大正」の雅彦に対してはちょっと背中を押したけど、憑依はしてない。
 「室町」の羅鬼の場合なんて、ただじっと見てるだけ。現代との差が、ありすぎ!
 人の感情を後押しする話なのに、憑依って・・・そんな事出来るなら、「室町」の時代で意地悪な村長とかに憑依したらいいのに。

 物語として足りないと思うのはそれだけではなく、「現代」の掃除夫に惹かれるジュリもそう。
 何に悩んでいるのかが良く判らない。既存の概念ではなく、自分が良いと思ったものが本物、という掃除夫の言葉に感化されたまでは理解出来る。
 でも、その後、掃除夫と引き裂かれた後、何故元の恋人サダオを選んだのか。既存の概念を捨てると言いながら、生活を捨てて掃除夫について行こうとしないジュリの気持ちが判らない。
 引き下がった掃除夫に対し、見栄でなく断固ジュリを愛しているとサダオが言い張るようなら、「本当に愛していてくれるのはこの人だ」と丸く収められるけど、そんなシーンやそぶりもない。
 悪いが、初演の掃除夫と黒タキシードが別人物だと理解出来た西村さんでも、ジュリの考えは理解出来ない。
 せめてジュリが日々の生活の中で悩みがあって、それを掃除夫の言葉によって打破出来たのなら、物語として成立もするだろう。でも、ジュリはファッションも音楽も良いものだと思ってそれを選んでいたのだから、「自分が選んだものが本物」は通用しない。
 例えば、本当はRapが好きなのだけれど、恋人が音楽家でRapを馬鹿にしていて言い出せないでいる、とかなら、観に来ているKREVA以外のファンでRapを五月蠅いだけの下品な音楽だと思っている人へのダブル・ミーニングにもなる。
 ただ、掃除夫を好きになる過程も、好きになってからも、イマイチ可愛さを感じられないのは、脚本だけでなく、今回のキャストの能力によるところが大きいのかもしれない。
 初演時に比べて落ち着きがなく、キーキーと騒いでいるだけのジュリは、掃除夫が好きになる要素が感じられず、余計に黒紳士に操られたからにしか思えない。

 「大正」のくだりに関しては、話として、舞台として、纏まっていると思う。
 小道具やセットをあまり使わず、照明で舞台全体に広げた舞台状の階段(全編通して設置したままのセット)を室内や土手に見立てて使っているところも良い。
 ジュリの部屋はチープなピンクで統一され、お屋敷と言うより一人暮らしの若い女性のアパートのようで、ジュリの衣装やお手伝いさんの存在とそぐわず、違和感がある。
 一方、「室町」はセットや小道具もそれなりに用意されているが、ミスマッチではないので違和感は少ない。
 ジュリの部屋も小道具を排し、きちんと掃除夫の立ち位置との隔たりを作るべきだった。「屋敷」「部屋」と言い最初は上手袖を玄関と表現しながら、次からはそのような「お約束」を無視し、まっすぐ階段の上からジュリに向かって歩いてくるようでは、おかしすぎる。
 衣装に関しては、「大正」の朋子さんもおかしい。何で土手のシーンであんなずるずるのドレス着てるんだろう。取り巻き女性の衣装も大正というより明治だし。
 一部朋子さんがダンスを披露する場面があって、そこだけは裾が短いので、そのままでいいと思うんだけどな。

 「室町」の話にも突っ込みたい部分は多々あるが、やはり何と言っても名前だろう。
 主人公の名前が「吉良」で敵対することになる鬼の王が「羅鬼(らき)」・・・どうよ、このDQN具合。
 なので名前を連呼するたびに、観ているこっちが恥ずかしくて仕方がない。
 吉良にしても、何をしたかったのか判らない。
 村人に詰め寄られて悪い鬼たちを殺すように命令され、渋々従ったものの、物語の途中にそれに疑問を覚えている。にもかかわらず、やはり最後に躊躇なく剣を振り回し羅鬼と戦うのは矛盾している。
 ただ周囲に振り回され、流されて、それで最後に兄弟だと知って生き方が変わるくらいならば、村からはじかれたくないために、鬼退治を買って出る、そのくらいの卑屈さがあってもいい。
 あと、羅鬼も登場してわりとすぐに「寂しがりの良いやつ」になってしまうので、悪行を重ねまくって、ふとした瞬間に良いやつになる、逆に吉良は良いやつだと思っていたのに鬼だった、の方がメリハリがあると思う。
 厨二レベルだと評してみたけれど、単純に物語の作り方が下手で、推敲と言うものをしているのかどうかすら怪しく思える。
 この音楽劇はチケットの値段が9,500円とわりと高いが、「シアタークリエ」という劇場だから、それについては妥当だと思ってる。
 それ故に、若年層のファンは少なめ。
 それならばやはり客層に合わせた内容と言うものがあると思う。若い人が多ければ今回のような内容でも良いと思うけれど、良い年した人間が観るに堪える内容では正直ないと思う。

 再再演をもしやるならば、外部からある程度の集客経験のある商業演劇経験のある脚本家、演出家を迎えて欲しい(個人的には鴻上尚史さんのファンなので、彼だったら嬉しい)

 そして、3つの話のうち、どうしても残したいものを残し、他を別のストーリーと入れ替える。
 今回、初演時に比べて笑いを多く入れたのは良い試みだったとは思うが、脚本上で書かれた笑いはどうにも空々しく、心からは笑えなかった。
 小説にしても脚本にしても、笑いは作家の力量が判る。コメディを
上手く書けないのであれば無理に入れない方が良い。その点からも野村社長と町田さんでは力不足の感が否めない。
 そういう意味で集客経験の有無はすごく大事なことで、長い舞台や大きい舞台での経験がないと、楽屋オチの笑いしか書けず、結局は今回のような自己満足に終わってしまいがちになる。
 一点だけ、毎日入るMammy-Dのアドリブ箇所が、ぐずぐず感いっぱいで面白かった。(2回見ただけだが)演劇経験のない彼が取ったのは、やはり今の舞台のパロディ化だった。狙わずに今携わっている舞台を揶揄するにはそれなりに深く携わり、愛情を持って接しないと出来ないことで、それ故に楽しんで演じていることがわかって、(笑いとしての出来はともかく)そこが良かった。
 普通の演劇ではありえない演出だけど、それ故にこの部分は保持しても良いと思う。

 今回良いと思ったのは、照明。
 おそらく演劇専門の照明さんではなく、いつものライブの時の照明さんなのだと思います。
 演劇ではあまり使われないレーザーなどを多用した演出は効果的で面白く、KREVAのライブを観慣れている人間からしたらとても「KREVA」を感じることが出来た。
 音楽でも演劇でも、それぞれの良いところや特色を生かした箇所はやはり生きる。だからこそ、ただKREVAの音楽にいい加減な演劇を合わせて欲しくない。本物の演劇に本物の音楽を掛け合わせてこそ、「最高」が生まれると思う。

 最後に一つ。
 先程も書きましたが、チケットの値段が高め設定です。
 音楽のライブと違い、落ち着いて見られるのが舞台の良いところだと思っています。
 千秋楽に隣に座った女性がKREVAのファンのようでしたが、おかしなところで声を上げたり笑ったり、(一番にしようとしているのか)フライング気味で拍手をしたり・・・一番酷いと思ったのは、手拍子の時に腕を伸ばして頭の上で手拍子。
 ライブの時ならそれでいいと思います。つか、西村さんはもっと酷いと思うし(笑)
 でも、これはあくまでも演劇です。
 面白い部分では笑い、悲しいところでは泣く、リズム感のあるところでは手拍子をする。それはライブと一緒。
 でも求められていないのに手拍子をしたり、名前を叫んだりするのは違うと思う。あくまでも自分の座っている範囲内で、周りに迷惑にならない程度に手拍子もするべき。過剰な出演者へのアピールは、ただのマナー違反だと思います。
 ルールは無し、あるのはマナー。
 そう歌うKREVAの音楽劇でこういうお客さんがいるのは残念なことです。
 普段、舞台を見ないのかもしれない。それならば周囲を見ることをして欲しい。他の人がしていないと言うことは、それは理由があってのことなのです。
 初演時はKREVAファンが多かったけれど、今回は他の出演者のファンとおぼしき人も多かった。それらの人たちに、TPOが理解出来ない人がKREVAファンに居ると思われたくない。恥ずかしい。
 最高はひとつじゃない。
 今回の上演のどの回も最高だったと、出演者が言うのは自由です。でも西村さんにはこの舞台が「現時点では最高の物」でしかないと思う。続けるならば「演劇としても最高」を目指して欲しいし、そのためには出演者、スタッフ、そしてお客さん全てがそうあるように努力しないならないと思う。
 舞台は作り上げるもの。KREVAのライブも作り上げるもの。
 片手間で曖昧な物を作るのであれば、どちらもいらない。最高を作り上げられないのであれば、どちらか一つに絞って欲しいし、KREVAが好きだから妥協したくない。そして王者のKREVAが好きだから、この程度で「最高」だと言ってしまうのを残念に思う。
 この企画をした社長やスタッフ、KREVAさんはもう一度よく考えて、次の「最高」を目指して欲しい。

 余談。
 初めて出待ちをしました。
 30分くらいでダンサーさんたちがぽろぽろ出て来たけど、声掛けてあげられなかった・・・ごめん、凄く良かったのに。
 そしてKREVAさんも他の主要キャストさんと共に出て来て、目の前を通って行きました。
 カッコイイ・・・
 茶色い帽子が素敵でした。ヒゲもカッコいい・・・
 そして車に乗って、出て行くまで手を振ってくれてるのも素敵だった。本物のスターだわ。
 KREVAさんにはちゃんと「お疲れ様でしたー!」って声投げたよ。
 キャストさん通り過ぎた後、ふわーっと良い香りがしたんだけれど、あれはKREVAさんの香りなのか、宮野さんの香りなのか。
 もうこれだけでチケット代、元取った気分。

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だって読めないもん・・・ごめんね。

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