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ドラマ版「レディ・ジョーカー」が気に入らなかったでござる。

 3月からwowowで放送していたドラマ「レディ・ジョーカー」が先週最終回を迎えました。
 楽しみにしてたんですが、色々と納得いかないことが多かったので書くよ!(「レディー・ジョーカー」関連でアクセス増えてるので変な文章だよ!笑)

 大手ビール会社、日之出ビールの城山社長が誘拐された。犯人は人質はビールであり、後日連絡すると言い社長を開放する。しかしそれは表向きで、実際はさらなる金額を裏取引で要求してきた。
 人質、それは解放間際に託された二枚の写真、姪の佳子と彼女が付き合っていた、亡くなった秦野青年のものだった。
 これがあらすじの一番最初です。
 もうここからして、高村薫の原作を読んでいないと何だか良く判らないわけです。
 実は秦野青年の母親はレディ・ジョーカーのうちの一人、物井清三さんの娘です。そして父親の歯科医、秦野さんは神戸の被差別部落出身です(正しくは地域に住んでいたことがあるだけのよう)
 物井さんの養子に行ったお兄さん岡村清二さんは元日之出ビールの社員でしたが、リストラ時に退職しています(体調により自らの意志で退職したことになってはいる)手紙では、それ以前に、組合活動を積極的に行っていてクビになった社員と少しだけ親しくしていたのは関係ないと言いながらも、その旨に言及しています。
 そして、秦野青年は日之出ビールの入社試験を受けたものの、二次面接で突如退席し、そして事故で亡くなっています。これは当時付き合っていた佳子が父親から秦野さんの出生について聞いたことを本人に話す、と言うことをしたためと考えられています。
 日之出ビールが意思はなくとも結果的に就職差別を行った、という内容を世間には知られるわけにはいかなかった。それ故、城山社長は裏取引に応じるしかなかった。
 その辺が凄くドラマでは曖昧です。

 原作では冒頭に故岡村清二さんが日之出ビールに宛てた手紙が登場します。
 ドラマでは城山社長が留置所で読んだり、ラストに合田がお墓で読んでいるのもこの手紙です。
 物語の発端ともなった手紙なのでそういう演出にしたのは理解できますが、そもそも手紙についてよく描かれていないドラマでは見ていて「?」だったのではないでしょうか。
 貧しい東北の寒村から就職し、戦争に出兵、戻って来た時に迎えてくれた日之出ビールという会社に対する気持ちや、その会社に切り捨てられた活動員だった社員。
 それら日之出ビールに対する憧れと裏切られたという気持ちが、城山社長の会社への気持ち、合田の警察に対する憧れと失望感がリンクして話が盛り上がってる(はず)

 それから、レディと呼ばれている障害を持った娘、布川幸。彼女の演技もすごく疑問です。
 ドラマの幸はごく普通の健常者にしか見えない。これでは布川の<障害を持つ子供の親>という追い詰められた立場が判りにくい。
 障害と被差別部落、それから銀行員の高の在日朝鮮人という、本人の意志とは関係なく、逃げられない状況が存在するというのが重要なのです。
 その点、映画版の「レディ・ジョーカー」で幸を演じた子は凄かったな。ホントに障害のある子を連れて来たのかと思ったくらいの演技だった(斉藤千晃というらしい)
 
 で、岡村清二さんの手紙を秦野(父)が入手する経緯に総会屋が絡んで来るので、表面でレディ・ジョーカーと警察の攻防でありながら、水面下で総会屋を追うジャーナリスト、という形が出て来ます。
 この辺、少しずつ入り組んでいて、ドラマでも原作でも何故城山社長が立件されたか判りづらいですが、高村薫の世界はいつも表面に現れる事件と裏側で動く事件が絡み合ってるので、その辺は仕方ないかな。

 後半、合田と半田がそれぞれに対し異常な執着を見せていきます。しかし、ドラマだとまだまだ普通っぽい。
 何十通も自作の脅迫状を送りつけている時点で合田は病んでいるのですが、それが画面に出て来てない(よく見ると、帰宅したままの格好で脅迫状を作成しているとか、細かい点はあるんだけど)
 半田も合田が追い回してくるのが面白くて仕方ないのに、それが判りづらい。
 映画版でも言えたことだけれど、追い詰められて破滅した二人のうち、合田には義兄であり友人である加納検事という救いがあった。だからこそ合田は命を取り留め、反対に半田は自滅したのだろうけれど、それが一般にはどうしても盛り込みにくいようで、ドラマでもざっくりと切られていた。
 (余談ですが、最初の単行本が出て少ししてから、電車に乗ったら「レディ・ジョーカー」の話をしているサラリーマンに出くわしたのですが、何故ゲイなのか意味がわからない、気持ち悪いと話していた)
 合田も加納もクリスチャンという設定で、だからこそ彼らにとって「救い」というのはもの凄く重要なファクターなはずなのです。
 その部分だけ取り出すと違和感や嫌悪感を感じるかも知れないけれど、高村薫が彼らにそういう役割を何故与えたかを考えると、理解出来ずともやはり削って良い箇所なんてどこにもないのではないかと、そう思います。それは翻って、他の何でもないシーン、削られたシーン、変えてしまった名前などにも言えるんじゃないでしょうか。
 (そもそも高村薫の小説にゲイっぽい人はよく出てくるんだけどさ・・・)

 部落差別という問題をほんの少しでも含んでいることで、何だか良く判らない面倒臭い問題が発生してしまうのが現代なので、そこは仕方なかったかなー・・・と思うんだけど・・・
 高村薫の小説をドラマ化すると決めた時点で、全て描く、何も削らない、くらいの気持ちで挑んで欲しかったと思います。
 ドラマを観て、少しでも面白いと思った人が居たら原作を是非読んで貰いたいですね。もっとドキドキするよ。
 ということで、西村さんは再読してます。

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だって読めないもん・・・ごめんね。

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