「風邪」
美音(みね)ちゃんが風邪を引いた。
今年は五月の連休が終わるとすぐに梅雨に入り、明けたのも例年より早かった。毎日暑い日が続いた後、台風と共に一週間も涼しい日が続いた。
戻り梅雨に油断したわけではないと思うけれど、いつも元気な彼女が珍しく夕食を半分残した。
買い置きの風邪薬とビタミン剤を飲んで早寝をしてみたけれど、夜中に咳が出て良く眠れなかったらしい。
「完全に風邪」
次の日起きて来た彼女はそう言いながらも、支度をして朝早く家を出て行った。今日はどうしても外せない仕事があったから。
体調が悪くても休めない仕事というのは、本当に困る。
自分の職場もそういう雰囲気ではあるけれど、それでもどうしても、となれば代わりは効く。
「その代わり、暇だったら休み取り放題だからね」
いつでも、辛い時でさえニコニコ笑っておどけて見せるその強さが、時には心配になる。
案の定、帰宅すると、先に帰っていた彼女は服を脱ぎ散らかして、ベッドに潜り込んでいた。
「お昼ちゃんと食べた?薬は?」
「二時過ぎに少し食べた・・・薬も飲んだ」
額に手を当てると少し熱い。
「あー、冷たくて気持ち良いな」
額に張る冷却用のジェルシートさえ買い置きしていなくて、古典的手法・・・タオルを濡らし、彼女の形の良い額に乗せるしかない。
喉が痛くて物を飲み込むのも辛いというので夕ご飯はお粥にしたが、あまり食は進まないようだった。
「ちょっとドラッグストアまで行って来るけど、何か欲しいものある?」
夕食後、もう少し効きそうな薬やあれこれを買いに行く前に声を掛けると、何か言った。
「え?」
耳慣れないその単語は一回では聞き取れず、何回か聞き返してようやく頭が理解する。
「うん、じゃあ行って来る」
「暗いから、気を付けて」
自分のことには無頓着なのに、私のこととなると神経質なくらいの彼女は、鼻声でそう注意する。
「はいはい、自転車で、ちゃんと明るい大通りで行って来ますよ」
返事に満足したのか、布団を肩まで引き上げて直してあげると、再び猫のように丸くなって眠りについた。
「お帰り」
居間でテレビを見ながら明日の予習をしていると、彼女がひょっこり顔を覗かせた。
「あ、ただいま。寝てたから起こさなかったんだけど・・・」
「うん。トイレに起きただけだから」
そう言いながら、向かいの椅子を引いて座る。
「何か飲む?ホットミルク?ポカリも買って来たけど」
「じゃあポカリ。水で少し薄めてくれる?」
買って来たばかりのペットボトルを開封し、グラスにミネラルウォーターと半々で注ぐ。さすがに氷は入れなかった。
風邪の時はポカリが良いと彼女は言う。病気の時は味覚が変化するため、合成甘味料は口の中が気持ち悪く感じ、後で元気になった時にそれが口に出来なくなる。でもポカリはそれがない。味が濃いから、舌が多少馬鹿になっていても味が判る。
一緒に暮らし始めて三年が経つが、それ以上に長く一緒に過ごした時間では知らなかったこれらのことを、たくさん知った。
「あー、五臓六腑に沁み渡るわあ」
口調だけは明るいが、相変わらずの鼻声でいつもの精気は微塵も見られない。
「咳に効くって風邪薬買って来たから、飲んでみる?」
薬事法が変わって、風邪薬一つ買うにも薬剤師が不在だと買えなかったりするのは不便だけど、常駐しているようになって、あれこれ尋ねることが増えたように思う。不便とは一方の意見であって、他方から見れば便利でもある。
紙パッケージを開けて薬包を手渡すと、「ありがと。いいやこれで飲んじゃえ」と言って薄いスポーツドリンクで流し込んだ。
「あ、そうだ、あれ買って来てくれた?」
「うん」
出掛けに頼まれたそれを紙袋から出して渡す。
「ありがとう」
「小さい頃、風邪をひくとよくお母さんに塗られたの」
ベッドに戻りながらくすくすと思い出し笑いをする。
「お母さんの手も薬も冷たくて、嫌だったわ」
寝室に入ると、箱を開けて中のプラスチック製の瓶を取り出す。パジャマの胸元をはだけて自分で塗ろうとするので、貸して、とそれを取り上げた。
「ありがと」
「気にしないの。病人なんだから」
ベッドに横たわった彼女の胸に手を伸ばす。
指で掬った薬と指先が触れると、一瞬体がこわばるのが判る。
けれど、半透明の薬を掌を使って伸ばしていくうちに、それも消えた。
「思ってたより冷たくないなあ」
「冬だったのかもね」
早く楽に、良くなりますように、と願いながら薬を塗る。
きっと彼女の母親も同じように娘を思いながら看病したのだろう。
「気持ちいいな。ずっとこうしてて欲しいかも」
枕元のボックスからティッシュを引き抜いて自分の手を拭いながら、「赤ちゃんみたいね」と笑う。
「今日も客間にお布団敷いて寝るから、何かあったら起こしてね」
前髪を手で避けて、ジェルシートの裏側を剥がして額に貼り付けた。
「冷たい」
薄暗い部屋の中でも、顔をしかめたのが判る。
「仕方ないでしょ」
「おかあさんみたい」
彼女は笑ってそう抗議をしたけれど、わたしにも小学生のままの彼女に見えた。
「消すよ」
サイドテーブルのライトを消した。
彼女は少しでも明るいと熟睡出来ないから。
「彩明ちゃん。ありがとう」
その日何度目かの弱々しい言葉に、「当たり前でしょ。家族なんだから」と答える。
「うん!」
嬉しそうに布団に顔を埋める様子が、闇の中でも手に取るように判った。
「おやすみ」
「おやすみ、また明日」
これから先も互いに支え合い、新たな発見をし続ける。
病める時も健やかなる時も、伴侶として、時には母のように、子供のように。
それが私の家族。私の愛おしい彼女。
明日には、輝くようなその姿を取り戻して──
長くなった・・・またしてもオリジナル。
出て来る謎の薬は「ヴィックス ベポラップ」です。
美音ちゃんの幼少の記憶は、西村さんの実体験。
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